野村 輝夫さん 昭和11年生まれ 母りつさんより聞いたことのまとめ

 

脳性小児マヒによる重度肢体不自由。言語は理解し、ききとりにくいが話せる。全面介助要。

1.560匁(2,100g)の未熟児として出生。当時は保育器などもなく、毎日重湯を作って懸命の養育の結果、命をとりとめたが、発育不良で立つことも、歩くこともできず、長いあいだ病名も知らないままに在宅していた。とくに、戦争中の苦労は大変であったという。「こういう子には知恵をつけるな」といわれ、学校に入れることなど、考えもしなかった。

2.昭和36年 27歳

国鉄と鉄道弘済会が、現職・OBの職員とその家族を対象に行った身障者の実態調査で浮かび上がり、初めて療育訓練を受けた。その後、拓桃園に入園し、硬直した腋下や開脚の手術を受けるまでは、寝たきりであった。

3.昭和47年 36歳

弘済会主催による七ツ森希望の家宿泊訓練会に参加。拓桃園長高橋氏の指導のもとに、車椅子の提供を受けた。

4.ボランティアの伊藤英二さんが、カナを教えることを決意。父親の協力のもとに、小学校の教科書から学び、2年間で6年生までの教科書をマスター、大変な勉学意欲をみせた。

5.昭和49年 38歳

新聞・テレビを欠かさず見るようになり、当時行われた参院選挙に、「口頭でもいいから投票したい」と父親に申し出、初めての身障者不在者投票を勝ち取った。これをきっかけに、市選管では、7個所の投票所にスロープをつけることになった。

6.昭和49年4月

父親は、県守る会の役員となり、地域に密着した福祉のあり方を強調。近所の会員・下郡山、後藤とともに南小泉地区障害児の親の集まりを開いた。後の仙台市守る会発足となる。

7.昭和49年11月

宮教大赤堀先生の指導で初めて正座。

8.昭和49年12月

肢体不自由児協会主催による、電動タイプライター学習会に参加した。

9.昭和51年5月

仙台市重症心身障害児(者)を守る会主催「成人を励まし祝う集い」に参加、遅ればせながら成人を祝う。

10.昭和51年7月

市守る会南小泉班の自主的活動による、希望の家宿泊訓練で、初めてプール遊びを楽しんだ。

11.昭和52年8月

ボランティア大槻さんの協力で、初の蔵王登山。

12.「おひさまといっしょに」にも、楽しんで参加した。

13.昭和53年10月

仙台市招待希望の家宿泊訓練で、市行政当局や会員の仲間、ボランティア達と交流を深めた。

14.昭和53年12月

54年養護学校義務設置を前に、市守る会のスローガン「重障児(者)にも教育を」を受けて、高教組とボランティア達の努力で、杉の木教室誕生。月1回の教室をいちばん楽しみにし、励みとしている。

15.昭和56年4月

宮障協を中心として、「国際障害者年をすすめる宮城キャラバン隊」が発足し、本人は自ら申し出て参加、活躍している。

父親は71歳、母親は68歳、本人は46歳である。同居している家族たちに支えられて生活しているが、病気がちの父親が、一日も早く安心できる日がくることを祈る。

 

聞き書き

 

【聞き】 生まれたときどうだったの?

【語り】 今だら未熟児なのね。560匁(2,100g)しかなかったんだもの。本当に手のひらに上がる位だっちゃ。普通の赤んぼだったら一貫匁(3.57㎏)以上だっちゃ。

【聞き】 育てるの大変だったでしょ?

【語り】 育てんのあんだ、全然おっぱい飲めなかったもの。だから匙で、いくらでもと思って、しぼって口さ入れてやったんだもの、そのうち吸わねから、おっぱいも出ねくなったし、米をすり鉢ですって水でといだもので糊つくって口で吸う力もなかったから、ほら、昔インクのスポイトあったすべ、あれで口の中に少しずつ注いでやったの。

【聞き】 他に病気はしなかったの?

【語り】 うん、産婆さんがびっくりする位、かぜもひかねで、腹もこわさねで、そんなに小さく生まれでも丈夫だったのね。でも100日位たってから、ひつけ虫って昔言うちゃ、近所のお医者さんに見せたら、ひつけ虫だって言うんだっちゃ。

【聞き】 かんの虫?

【語り】 うん、ひきつけ。にわかになったから往診してもらったら言われだの。昔だからねあんだ、かんの虫だって言うんだもの。

【聞き】 今、そんな病名ないよね。

【語り】 その熱も高いんだもの、あんだ。熱さましの薬飲ませだり、注射してもらったげども、どんどん熱が高くなっていくのっしゃ。そんなこんなしていくうちに、ひきつけもどんどんひどくなってね。お医者さんも、病名もわかんないし、熱さましの注射を打つだけで、熱のためのかんの虫としか考えないから、けいれんを止める薬くれないっちゃ。とにかく小さいっちゃ。このままでは困るなあと思って大学病院に行っても病名わかんないのしゃ。脳性小児マヒなんてことわかんねがっだのがね。そして大学病院では、昔だからねえ、見たところ珍しいから研究の資料材料にするから、官費でみるから、子供貸してくれろというだ。あんだね、そう言われたってねえ!なじょして我が子を簡単にね、無料だからってね!あんだ!

【聞き】 今で言えば人体実験?

【語り】 うんだっちゃ、そうされっとこだったの。憎たらしくなってさあ、わたしは、そのまま「帰ります」って言って、その後行かなかった。そして今度、鉄道病院に通ったの。そしてマッサージだのいろんなことやったけど、ぶるぶる全身震えてくるんだもの、目もひっくりかえってしまってさあ。

【聞き】 それが続いたの?

【語り】 続いたの。それがひつけ虫だと通してしまって、大学でも、どうにもなんねえことだと言われて─。

【聞き】 熱は続いたの?

【語り】 後で落ち着いたけど、マヒが出てきて、マッサージにね通ったの。夏の暑いときおぶりながら、自分ながらよくやったね。バスってなかったさね、線路伝いに東禅寺通りってお寺のわき通ってね、保春院前丁の家から東二番丁まで2年位通ったよ;(注・4㎞位)

【聞き】 バスはなかったの?

【語り】 バスだってあんだ、少しあったけど、回数もないし、家の年寄りに、バス賃などもらえないし。姑につかえでだもの、気がねでおぶって通ったさあ。

【聞き】 冬も?

【語り】 うん冬も。一日も休まねかったよ。

 

~ 中略 ~

 

【聞き】 戦争中は大変だったでしょ?8歳位になってだでしょ?

【語り】 仙台空襲のときはね、他の子供達はばんちゃんと疎開したんだから、そして、じいちゃん(注・夫)は盛岡まで機関士として乗務して廻っていたの、輝夫とわたしばりだっちゃ、そおすっと空襲たってね、歩けねえ輝夫とどこさも行けねえで、裏さ防空壕作ったって、一人で連れていくひまねえんだもの、ほかの人が入ってしまって、行けねえんだもの。

【聞き】 お父さんのお話では、防空壕というのは、お宅で申し出てお宅の庭を提供したんでしょ?

【語り】 うん、家の裏庭さ隣組でこしらえたの。

【聞き】 それはどうしてなの?

【語り】 じいちゃん(注・夫)がいつもいるわけでなし、遠くだと連れていけないと思って─。そだけど、自分の家の裏にあっても連れていけないの。

【聞き】 結局、誰も手伝ってくれないわけ?

【語り】 手伝ってくれないし、我れ先にってみんな入って行くっちゃわ、そうすると入れなくなるの。

【聞き】 そしてどうしたの?

【語り】 だからね、わたしはね、しゃねえな、輝夫とここで共に死のうって、そして押し入れの中さ、あんた入ったもの。

【聞き】 声かけてくれる人もいなかったの?

【語り】 いなかった。みんな夢中だもの、だからね、わたしは共に終わるのならここでもいいと思って、押し入れを常に開けてたの。

【聞き】 輝夫さんの食べ物を確保するのも大変だったでしょう?

【語り】 兄弟はみんな優しかったからいがったけど、ばあさんがねえ─。

 

~ 中略 ~

 

【聞き】 学齢になったときは何か通知きた?

【語り】 それがね、学校から通知来るも何もなかったのね。自分も頭から学校さ行かれないと思ってたしね。年寄りたちには、こういう子供には知恵つけんなっていわれだし─。

 

~ 後略 ~

 

(聞き取り 下郡山 和子 昭和56年8月)