その昔、障がいのある人たちのことを世間の人々に知ってほしくて、ラジカセを持って家庭訪問し、障害のある子を持つ母親から聞き書きをしたことがありました。1970年代は、障害がある人の環境は、こんなものでした。今ある福祉はご家族の頑張り、先人たちの努力によるものであることを知ってほしいと思います。



安達祐子さん 昭和31年生まれ 母ひさこさんより聞いたことのまとめ

1. 顔面位で出産、あごがつぶれて黒くなっていたが、異常なしとされた。

2. 1歳になっても首が座らず、手足を交差させているので、小児科に行くとくる病と診断される。疑問に思い、医学    書を紐解き、脳性小児まひであることを知る。治療法はないと書いてあったので医者通いをやめた。

3. 飲む力がなく、苦労した。一回に飲むミルクが10cc、練炭火鉢にいつも火を起こしておいて、30分おきに飲ませ、母親は夜中に帯を解いて寝たことがなかった。

4. 昭和32年3月 東北大学病院で、脳性小児まひと診断され、医者は、治療対象外と言った。

5. はり・灸などあらゆることを試みた後、マッサージがいいということを書物で知った。

6. 2歳7か月、母34歳。母はマッサージ学校に入学。おんぶして学校に通い、抱いて勉強した。2年で資格取得。7. 勉強したお蔭で、民間療法や宗教にも迷わないで、自分でマッサージを取り入れながら、療育に励んだ。

8. 昭和38年4月6歳。就学通知がきたが就学免除となった。

9. 8月、はげみの会とマザーズ通園の親たちの訪問を受け母親達の集まりの場「荒町マザーズホーム」を知る。

10. 8歳の祐子さんは、テープに吹き込んだ自分の歌を聴いて現実を知り、自分でちゃんと歌っていたつもりなのにと泣いた。しばらく気難しい日が続いた。その後、明瞭な声を出せないが、目の動きによって、会話することを獲得していく。

11. 母は宮城県重症心身障害児(者)を守る会の仙台分会結成会長となる。

12. 母は生活のために働かなければならず、家に一人寝かせていることが多かったので、西多賀重症児病棟が出来るとすぐ、入所させ、施設の充実のため保護者会長を務めた。しかし、地域福祉を追求する仙台市重症心身障害児を守る会結成にあたっても積極的で、副会長を引き受けてくれた。

13. 昭和47年15歳。祐子さんは、プライバシーの無い施設での生活に疲れ「生きるのがいやになった」と、泣きながら訴え、人との交流もきらった。母親は「今まででこれほど辛かったことはない」と述懐するが、やがて施設の職員の努力により、明るさを取り戻し、開き直ったように人前に出るようになった。

14. 祐子さんは、20歳過ぎごろから、多くのボランティアの友人を得た。特に、祐子さんの意思の小さなサインを読み取ることに長けた教育学専攻の武田さんとは仲良しになった。彼の介助で、音楽会、映画鑑賞、買い物、旅行などの外出で体験を重ねることが出来て、人間らしく生きることが出来たのだ。

15. 生きることに積極性が出て、訓練の成果で、少しの間、座れるようになったり、うがいの繰り返しで発声が上手になり単語も言えるようになったという。誰にとっても教育の機会は必要だ。

 

聞き書き

【聞き】 安達さんは、どうしてマッサージ学校に行ったの?その頃のこと聞かせて。

【語り】 うんだねー それまでは、はりだの、灸だのって、歩ったよ、まずおぶってねぇ。だけど、どこに行ったってね、治るはずないんだもの。お医者さんも分かんない、親はもちろん分かんないからね。なにで治っかと思って歩いているうちに、マッサージがいいんでないかと言う話を聞いたわけなの。それでは、家は貧乏でマッサージに通ったって、金も払えないしね、そして何かで母親がやったほうがいいと読んだのを思い出してね。それでは、私がマッサージを習いましょうというわけでね。学校に願書を出したわけなのね。そして入学してね、わたしは事務所に行って、わたしはこういう子どもがいるんだ。しゃべんないから、みんなの勉強の邪魔になんないから、おんぶしてきて、抱いて勉強してもいいですかって聞いたら、いいって許可されたときは、わたしはねー、うれしかったよー。だめだって言われたら、わたしはね、マッサージの学校に入れなかったね。連れて来てもいいって言われて入学してみたらね、高卒とか、中卒とかね、とにかく現役のバリバリっていう若い人たちの中に入ってね、子持ちの女がね、勉強について行かれるかなぁっていうふうに最初思ったね。だけども、とにかく入ってねぇー、忙しいのよ。あんたー、ご飯食わせて、おむつ取り替えてでしょう。上の子学校に出してやって、自分は子どもしょってさ、弁当作って、おむつ持って、ノート持って行くんだからー。

【聞き】 ご飯だって、祐子ちゃんはアテトーゼが強いから食べるのが苦手で、時間かかったでしょう。

【語り】 そうなのー、そして祐子は、うんと人見知りしたのー。それでも学校に毎日連れて行ったでしょう。だけどわたしも一日中抱いて勉強するの疲れるのよ。朝9時半から3時半までなの。その間抱いてんの疲れるからさ。ま、持ち前のちゃっかり屋でね、休み時間っていうと、「誰かに貸すよう!」っていうわけ。そうすっとみんなも勉強にあきってっから、祐子を借りるわけなの。そうすっと、ほら医学を志している人達だから、やっぱ、研究したよー。「手がどうなっている」とか「ここのとこ、こんな治療すっといいんだ」とかなんか言いながらね、あやしてくれたりしてね。とにかくね、そうやって休み時間のたんび貸したりしてたもんだから、今度ね、社会性というのが出てきたのね。いろんな人と接したんで、はじめての人の顔見ても泣かなくなるとか、その中でも、本当に好きな人には、にこにこするとか、何か聞かれれば「うん」と首をたてに振って返事するとかってなったの。とにかくね、マッサージが2年なの。はり・灸をまぜると3年行かなくてはなんねの。マッサージで国家試験通ったら、もう3年目は行けなかったね。もうとことんいやになってね。勉強が大変でしょう。子ども連れながら2年間通って国家試験通ってね。もう1年っていうの、わたし頑張れなかったね。そんどきわたしは34だよ!34歳になって学校入ってね、ついて行かれないと思った授業がね、わたしはね、一学期にね、一番になったの、成績発表で・・・

                    ~中略~

ということは、みんなは余裕があんのね。ところがわたしは、悲愴な覚悟といえば、悲愴な覚悟、わたしは結局、子供連れて勉強する時間もないね。学校から帰れば、おむつ洗って、晩ご飯の用意してからでしょう。食わせて、寝せて、勉強なんかする暇ないのよ。だからわたし、授業というと、うんとまじめに受けたよ。隣の人とぺちゃぺちゃしゃべるなんていう時間はなくてね。

                    ~中略~

そしてね、試験ときっていうとねー、あのー普通の勉強だからさ、ちょっと頼んで抱っこしてもらえっけど、試験の時はみんな真剣だからね。誰もあんだ、人の子どものことなどかまわねえよねぇー。わたしはね、腰掛の布団、板の間において祐子寝せて、試験書くわけよ。

【聞き】 板の間に置くって言ったって、祐子ちゃんはお座りできないし、アテトーゼが強く、突っ張っていて、大変だったでしょう?

【語り】 うん、その辺に転ばして置くのー。

【聞き】 床に?

【語り】 うん。

【聞き】 そうしてでもやったわけねぇー。

【語り】 うん、床にただ転がしておいてね、試験終わるまで。

【聞き】 祐子ちゃん、むずかったりしなかったの?

【語り】 うん、しなかったね。

【聞き】 また祐子ちゃんも良くわかる子だからね。アテトーゼの強い子は、みんな頭がいいから、聞き分けもいいのねー。でも、気難しい時もあるんじゃない?

【語り】 うん、気難しいというときは、淋しいとき。

【聞き】 淋しいとき?

【語り】 解るだけに、自分が思うように行かないからねー。それ以外は、とにかくね、聞き分けいいの。

【聞き】 お母さんが一生懸命やっているの解っているから、無理言わないのよね。

【語り】 無理言わないだけに不憫なの。

                     ~中略~

【聞き】 だけど、その治ると思って習ったマッサージが効かなかったわけだー。

【語り】 だけども、勉強したおかげでね、いろいろ迷わないで済んだね。そしてね、マッサージを応用して、自分でいろいろ訓練法考えだしてねー。

                     ~後略~

                                       (聞き取り 下郡山 和子 昭和56年8月)